霧、晴れたときに

しまった……甘く見ていた。

口を開く訳にもいかず、胸中で舌打ちする。
少しでも油断すれば荒れ狂う砂風が容赦なく口の中へ吹き込んでくるからだ。


無慈悲な帝国の鎧が次々と敵国を攻め落としてゆく中、
市場の中心は戦地を避けて幾度と無く場所を変え、
ついにはこんな遠方まで繰り出さねばならないほどになってしまった。

村で仕入れた農産物には足の早いものもあるので
明日の朝までにはこの砂漠を越え依頼主の商人に届けなければいけない。
しかし昨夜酒を交わした宿の主の「馬があれば半日」という言葉を
鵜呑みにしていたのがそもそもいけなかった。

目の前では濃く立ち上がった砂のもやは視界を白く染め、進む先はおろか空の色も分からない。
あっという間に方角を見失い、ここでの野宿も視野に入れつつしばし風が収まるのを待った。

どのくらいそうしていただろうか、ふと頬を叩く砂が少し弱まった気がした。
恐る恐る顔を上げると霞がかった空に浮かぶ月の輪郭をなんとか捉えることが出来た。
大きく胸を撫で下ろし、当たりを見回すと遠くに人影らしきものが見える。

まず目に付いたのは大柄な男だった。
鍛え上げた強健な肉体には無数の傷跡が目立ち、より凄みを増している。
身なりから奴隷階級と分かったが、なぜこんな砂漠にという疑問を抱く前に、
奴隷の男が何かを抱え込むように身を屈めている事に気づいた。
豪腕の隙間からさらりと光沢を放つ美しい髪が流れる。端正な顔立ちに翡翠色の瞳。
その出で立ちに一瞬女かと思ったが、どう見ても男の体格をしている。
恐らくこの大男の主なのだろう。砂嵐から身を守るために従者を盾にしていたのだ。

事のいきさつは理解できても、どうも納得出来ない。
いくら従者とはいえ、主に対してにそこまでするものだろうか、
そして主は砂で汚れる事より、従者に肌を触れさせることの方を嫌悪するものではないだろうか。
主従関係にある者は、精神的にも肉体的にも相容れないものだ。
ましてや同性のそれに、彼らの行為はひどく不可解で、不気味にさえ感じた。

従者の男の、両目に巻かれた眼帯の奥から鋭い視線を感じる。
それに気づいたようにこちらに向いた主の顔には、冷ややかだが満足気な笑みが浮かんでいた。
俺はとっさに視線を外し、本能的な危機感から逃避するように彼らを背にして先へ歩みを進めた。
少し置いて振り返ると、先刻二人が居た場所には足跡さえ残されていなかった。


街へたどり着いて一件の話をすると、
どうやらその男は調教師と呼ばれる生業の者らしかった。
心を壊した兵士や強情な捕虜を従順な奴隷に仕立てて売り飛ばすのだという。
かなりブンどられるらしいがな、と付け加え商人の男は卑しく笑った。


それから砂漠は何度も通ったが、あの二人を見かけることはなかった。
あの時主に向けられた笑みは常に優位にいる者が見せる表情だ。
未だに心臓を掴まれているかのような胸のざわめきを誤魔化すように
本来まっとうな人間が関わるべき存在ではないと自分に言い聞かせた。

しかし今でも思い出す。彼の冷えきった翡翠の瞳が
従者の腕の内でほんの刹那、かすかに熱を持ったのを。